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「ここは……」
次に目を覚ましたときは、自分の部屋の天井だった。
「ヒンジス?」
エリーが自身なさげに問いかけるように聞いてきた。
「エリー……俺は……」
「あなたは、ヒンジスよね」
「あっ、あぁ。そうだけど……」
エリーは一度部屋を出ていき、ダイニングの隅に片づけた姿見を運んできた。鏡を向けられる。
「えっ、そんな……ど、どうして……こ、子どもの姿になってる……」
中学生くらいの頃の自分だった。パッと手の平を見つめた。大人になる前の手だった。
しかし、俺の記憶はここに住んでいることを知っている。すぐに、宇宙に出た戦闘機の中で白い渦に飲みこまれたことも思い出せた。
「エリー、俺はどのくらい寝ていた?」
「一週間くらい……」
「一週間? あっ、それじゃあ……」
ベッドから起きあがって、窓の外を見た。
「ヒンジス……あれって……」
「あぁ、この星を食ってる月だ。もうそこまで……」
黒い月が湖の先の山向こうに堂々見えていた。
――もう時間の問題か……あ、俺があの渦に飲まれて子どもの姿にもどったってことは、エリーも。
――も、もし、エリーが死んでおらず、移民した先であの渦に飲まれて、時流から出てきたのがココだったら。
「エ、エリー。記憶は?」
俺の問いに、エリーは静かに首を左右に振った。
「そうか。つらいよな。なにも思い出せないまま……」
「ヒンジス。これ、読んだ……」
エリーは数枚の紙を持って見せてきた。ベッド脇に置かれたイスの上に、俺が書いていた小説の原稿があった。
エリーは、俺が眠っている間、俺の様子を見ながら読んでいたのだろう。
「このお話って……」
「うん、この星で起きたことだよ。もし、人類が天使を倒して、地球を守って、そのあとのことを書くつもりだった」
「そうだったんだ。私、ぜんぜん思い出せない。SF小説かと思ってた。でも、私はこのあと、どうなるのか気になる」
「ははっ……。恥ずかしながら、そこから全然、筆が進まなくて……自分でもどうしたらいいのかわからなくて……」
「これに出てくるエリーって人、ヒンジスの奥さん?」
「そうさ。自分を主人公にして、天使を倒して地球を救う。そして、家族と再会する話にするつもりだった。もういないエリーを思い出すと、ぜんぜん書けなくてさ」
「そう。机の家族の写真を見て、なんとなくわかった……ごめんなさい。私、ヒンジスのことぜんぜん思い出せなくて……今までなにをしてきて、どうして私がここにいるのかも」
「エリー、君が謝ることじゃない。俺は好きでココにいて、最後を迎えたかったんだ」
「それじゃあ、あの黒い月は……」
「それに出てくる星を食う黒い月。まさに、あれだよ」
俺は山頂の向こうに見える黒い月を指さした。
エリーはじっと窓の向こうを見てから、俺にふり返った。
「私、あの山の向こうを見たい」
「えっ、山の向こうって……もう月があんなに迫ってて、見えるものなんてそんなに」
「だって、私、この家の周辺しかわからないし、記憶も命もそんなに長くない。最後に向こう側がどうなっているか知りたいの」
エリーは強く俺を見つめてきた。
――戦闘機があれば、山の向こう側だけでなく、月に食われる星全体も見せられたのに。
「わかった。行こう」
――この家にいようが、山に行こうが、月に食われるタイミングが少し早いか遅いかだ。
湖を半周した先に、山へつづく道があることだけは知っていた。今まで山に登ろうとは思ったことはなかった。
二人で息をきらしながら、山道を歩いた。
どのくらい歩いたかはわからない。二時間くらいだろうか。どのくらい時間が経とうが、のどが渇こうが、もうなにも気にする必要はなかった。
山の尾根に出ると、反対側を見渡すことができた。
見上げるほどの大きな黒い月は、ふもとの手前まで迫っていた。
バリバリと大地を食べ進んできていた。
「もうなにもないね」
エリーは、すっきりとした声で言った。
「この辺は、向こう側もこっちもあまり変わらないさ。湖はなかったけど」
「でも、上から湖を見れて良かった。きれい」
エリーは月に背を向けて、今までいた家のほうを見た。
「まさか、湖を上から見ながらが、最後になるとは思わなかったな」
目を凝らして、天使の存在を確認する。わずかに小さな紫色の点が見えた。
やはり自分たちを見ているように感じられた。
――もうこれで、視線を感じられなくなるのか。
「ねぇ、あの小説の続き、エリーと再会したヒンジスはどうするの?」
「えっ、どうするって……」
もう背後には月が迫っている。なにをどう答えたって、状況が変わるはずもない。
なぜ、エリーがそんなことを聞いてきたのか俺にはわからなかった。
「抱きあって、キスするんじゃないかな……」
俺は恥ずかしくなった。もとの大人の姿であれば、それを感じるはずもないと思った。
「じゃあ、キスしよ」
同い年ほどのエリーが俺に向き直って言った。
「えっ――」
「私はヒンジスの奥さんなんでしょ?」
「た、たぶん。エリーの幼少期はあまり見たことがないから」
「大人になったあの写真は、私だと思うよ。ね、ほら、早く……もう月が……」
エリーはちらっと横を見た。
俺も見る。黒い壁がついにそこまで迫り、月に吸い寄せる風が強くなっていく。
「ヒンジス。もし、来世があったら、また私の魂を見つけてくれる?」
「エリー。もちろんだよ」
俺はエリーと唇を重ねた。まだ幼き少女の妻の唇は、柔らかかった。
そして、強く彼女を抱きしめた。
もし、このまま月に食われるなら、エリーと一緒に同時にが良かった。
月に強く吸い寄せられて、体が浮いた。
そのとき光に包まれたように思えて、まぶたを少し開けた。
目の前には紫色の光が放たれているがわかった。片耳の折れたそれのように思えた。
俺の魂は天使に補完され、魂の座は消滅した。
月はあとかたもなくすべてを食いつくした。
のぼっていく魂の中で、俺は別れを告げた。
この星に、ありがとう、と。
おわり