自分の言葉で書くことは、稚拙だったとしてもその人の気持ちがこもる!
書くことを習慣化させるため、背伸びした文章を書くことをやめた。そうしないように意識している。
幼稚な言葉の選びであっても、自分の気持ちを込めた言葉選びをするようになった。
ブログの方向性も、自分の作品寄りにしたこともあり、この3日間のブログを書く気持ちがとても楽になった。
いままではしっかりした記事を書いて、紹介するという意識が強くあり、背伸びした文章と内容を考えていた。
そんな時に、noteでコルクの佐渡島さんの記事にたどり着いた。
言葉は、社会のものだ。自分の生み出した言葉を使っている人はいない。社会が生み出した言葉を借りてきて、社会のではなく、自分の心を伝えなくてはいけない。一つ一つの単語は、社会のものでも、そのつながり方を工夫することで自分の言葉にすることができる。しかし、単語だけでなく、単語のつながりまで社会から借りてくると、どれだけ必死に話しても、自分の本心は届けられない。
自分が話しているのは、借り物の言葉なのか、自分の言葉なのか、その差を理解するようになることが、作家の始まりだ。世の中に溢れている言葉は、そのほとんどが借り物の言葉として使われている。それに気づくことが、物語を作るよりも大事なことだ。
何かに似せようとしている自分がいた。
腑に落ちた。
引用の中で、使われている言葉で表すなら、「借り物の言葉」に似せようとしていた。
ブログ記事ひとつとっても、あの人のような記事を書きたいと思って、似せた全体の構成、冒頭のキャッチーな言葉使い、文章の並び……。
そうすれば、検索に引っかかって、最後まで読んでくれるのでは、と思っていたりした。
そういう記事を書こうとすると、どうしても時間がかかり、自分が苦しくなっていた。
たぶん、違和感を感じていたんだと思う。
きっと、自分の言いたいことがストレートに言えていなかったんだと思う。
心から言いたいことが稚拙だと思われたくなかった。
書いている文章が幼稚だと思われたくなかった。
そう思われないために、背伸びしたように書くと、つらくてなかなか書けなかった。
今、書いている小説もそうだった。肩ひじを張っている。
緊張は必要だが、こわばるほど緊張していては、書けるものも書けない。
しかし、背伸びせず、思ったように言葉を書いてみると、自分の伝えたい言葉が並んでいるように思えた。
それに力強ささえ、感じる。
不思議だ。
書く習慣化
それでも、まだ意識は背伸びしたがっていて、肩ひじ張っている。
まだ、すんなり書けるようにはいっていない。
毎日、続けていくためには、すんなり書けるレベルのものを続けていくしかない。
思い返せば、一文物語を始めた時もそうだった。
まず、毎日、自分が楽しく書いていけることが前提だったし、気づけば一年続いていた。それが今は四年になる。
背伸びはせず、自分の手の届く範囲でやっていたことを思い出した。それから少しずつ上を向いて、行けるようになっていた。
この3日間のブログも、苦じゃなくなっている。切り替えてみたことで、苦しくないことに気づけて良かった。
小説を書くのも、昔のような楽しさもよみがえり始めている。
背伸びすることも、上を向くことも大事だ。
でも、それ以前に、楽しいと思ってやることを忘れてはならない。
その方が、気持ちもこもっている。
初心の気持ちで、もう一度、自分の言葉で書くということを意識して、ものにしていきたい。