2-10.飛ぶ決意 [小説 理想水郷ウトピアクアの蝶]
ほとりがミクロスに連れて行かれたところは、ステージの上の宙づりにされた通路だった。公演中に、マルコを連れて逃げろと言う。
ほとりは、通路の先端に立たされて、スポットライトを浴びた。
お目付役
薄暗い通路を進むに連れ、ステージで流れる音楽が、だんだん大きく聞こえてくる。
「いいか。これからお前さんを新しいフリークとして紹介する。
適当に羽を見せて、マルコを連れて逃げろ。演出は、わしの方でしてやる」
「私が、ステージに出るってことですか?」
「そうじゃ。それが最適な方法じゃ」
「急すぎます。わざわざそんなことしなくても、裏から逃してください」
ほとりは、立ち止まろうとしたが、ミクロスの底知れない力によって引っ張られていく。
「それができないから言っておろう。もし、裏から出たとして、フリークとして知られたお前さんは、さらにマルコに近づくのが難しくなるぞ」
「それは……」
――サーカス関係者は、必死に私のことを探すだろう。
「裏には警備がいるし、公演がない時はお目付役が、ずっとそばでマルコを見張っておる。それらすべての目を欺くには、公演中がいい」
「お目付役?」
「わしじゃ」
ミクロスの顔だけが振り返った。笑顔だった。
「だったら、なおのこと、ララさんを説得して逃がしてくれれば」
「説得? わしがして何の意味がある」
突き当りまで来ると、上へと伸びるハシゴがあった。
「ステージに出たら、マルコを説得するなりして、飛んで連れて行け。さ、こっちじゃ」
ミクロスは、身軽にハシゴを登り始めた。
宙づりの通路
ハシゴを登るのに躊躇していたほとりだったが、早くしろと、急き立てられハシゴを登り始めた。
ほとりは、もう一度自分自身に、なぜここに着たのかを問う。初めて見たこの理想水郷を思い返した。
一段一段上がるたびに、自分の思っていた理想は、ここにあっただろうかと、振り返る。
ハシゴを登り終えると、宙吊りになった細い板の通路に立つミクロスから、手を差し伸べられた。
その手を取ると、ぐっと引き上げられ、自分の動きで揺れる板に、しゃがみ込んだほとり。
「もし、マルコさんを連れ出せたとして、そのあとミクロスさんやサーカス団の人たちは、どうなっちゃうんですか?」
ほとりは、ミクロスを見上げて聞いた。
「今の心配より、その後を心配するとはな、お前さん。お前さんが理想水郷を作ってくれるまでは、なんとかなるじゃろ」
「私の理想水郷……」
ミクロスは、表情を和らげた。慣れたように揺れる宙づりの板通路を歩いて行く。
ステージ裏からステージへと伸びていて、簡易的なロープの手すりを頼りに、ほとりもあとをついていく。
真下のステージを見ると、フリークたちが水を飲むシーンを演じていた。
「まだ小さな子供が、自分の体を見せて、働かされている。フリークが生きて行くには仕方ない。
こんな好奇の目に晒され続けて、鳥かごのような狭いところを飛ぶより、同じ仲間のいる広い空を飛んだほうが、マルコのためにもなる」
ほとりは、ミクロスがまるでマルコの親のように見えた。
「長年面倒を見ているとな、この子には可能性のある道を進ませたいと思う。
ここまで来てくれたのは、お前さんが初めてじゃ。
だから、ワシは、お前さんにマルコを託したい。お前さんの行動力を見て、そう思った」
ほとりは、誰かに影響を与えるようなことをしたとは思えなかった。
「じゃが、マルコがそっちへ行くかどうかは、お前さん次第だ。でも、お前さんの強い意志が、すべてその通りになるだろうよ」
ミクロスは、強く頷いてみせた。そして、狭い板通路の端に寄ると、足下が揺れて、斜めになる。
「そろそろ、出番だ。わしの前に立て」
「え、でも……」
不安定な場所で、もたもたしているほとりは、手をミクロスに引っぱられ、抵抗のたびに揺れる通路の先端へ追いやられてしまった。
「ちょっと待ってください、ミクロスさん。本当に、ここから、私、どうしたら」
「羽を出して、飛べばいい。マルコも飛ぶから一緒になって宙を舞え。客はしばらく静かに見ているさ。
その間に、マルコを説得しろ。そしたら、わしが逃げ道を作る」
「えっ、そうじゃなくて、私っ」
「そうじゃったな、お前さんの名前を聞いてとらんかったな」
「浅葱ほとりです。いや、そうじゃなくて」
「名前、違うのか?」
「名前は、それなんですが――」
「浅葱ほとり。いずれ真の理想水郷を作る者として覚えておこう」
ミクロスは、笑って見せた。
ほとりの飛ぶ決意
ほとりは、飛べないことを言い出せずにいると、ほとりはスポットライトに照らされた。光を嫌うように客席から顔をそむけた。
「今宵、また水の犠牲者となった少女が発見された。人ならぬ姿に耐えられない少女は、その醜い姿を呪って、自ら命を絶とうとしていた」
崖の上にいるかのような、ピューピューと冷たい風の音ともに、ナレーションが入った新しい演出によって、会場がざわついている。
ミクロスは、スポットライトの当たらない後方に下がって、手で追い払うように飛び降りろと、何度も合図を出している。
ほとりは、足元のステージを見下ろした。その高さに恐怖はなかった。
フリークたちが小さく見える。もちろん、マルコもそこからほとりを見上げている。
――飛べないままでいいのか。
ミクロスが言っていたように、思い一つで、ここまで来たようにほとりは思えた。
彼女を助けるために。理想水郷を作るために。
飛ぶことへの意思が弱いのかと思い直したほとりは、立ち位置を直した。
肩の力を抜き、近い天井を見上げて目をつむる。
――私は、自分の羽で 飛びたい。飛びたいんだ。
一度息を吐き、ゆっくり腕を広げ、足首を軸にして前方へ体を傾けていく。
ほとりの体が傾くに連れて、観客がどよめいていく。
確実に飛んでいるイメージと、ただ落下してしまう弱い意志が、心の中でせめぎあい、まるで時の流れがゆっくりとなったように、一瞬一瞬のことを把握できていた。
空気が、頬を、耳元を、横切って、髪をなびかせる。
真っ逆さまになったほとりは、手を首の後ろに回し、首筋を指でなぞった。
――この極限状態なら、きっと。
ほとりの水のような透明な蝶の羽が、広がった。
2-11.蝶人の説得