日本の映画はもっとセリフやモノローグを増やしていいんじゃないか?
2017年3月18日から公開したアニメ映画「黒子のバスケ LAST GAME」と「3月のライオン 前編」を映画館で見てきました。
「3月のライオン 前編」
どちらも漫画を原作とした作品。
「黒子のバスケ」は、週刊少年ジャンプで連載られていた藤巻忠俊さんが描くバスケットボール漫画。
「3月のライオン」は、「ハチミツとクローバー」の羽海野チカさんが描く17歳の将棋のプロ棋士を主人公とした物語。
どちらの漫画も面白く楽しめた作品だったので、映画も期待していました。
消化不良だった3月のライオン
黒子のバスケは、満足できましたが、3月のライオンは消化不良でした。
3月のライオンは、前後編に分かれているから内容が、そう感じたわけでありません。
主人公の気持ちが、映画の中でいつになったらわかるのか、ずっともやもやしていました。
俳優の演技が悪いというわけでもなく。
情報量が少ない印象
二時間程度に内容を収めなければならないので、内容がカットされることは、十分承知しているつもりでした。
しかし、映画の主人公は、何を思って物語を進めているのか。
よくわからなかったのです。
原作漫画の中で、迷い・葛藤がありつつ物語が進んでいきます。
その迷ったり、気持ちがぶつかる、破裂する理由が、あまりにも薄くしか描かれていないような気がしました。
映像とモノローグ
漫画は、主人公の気持ちをモノローグで表現していることも多い。
主人公が喋らずしても、何を考えているのかがわかります。
映画の場合、その辺りはまったく話されていません。
話されていない分、映像ないしセリフ、シーンで描かれるのかと思っていたけれど、私には表現として弱いと感じました。
実写映画は、人の表情、動作、声、シーンの景色、音、多くの情報量を持っているはずなのに、スクリーンから伝わってこなかった。
ならば、モノローグで主人公が思っていることを入れ込んだらどうでしょうか。
映像表現にモノローグを入れること、特に映画、物語性が強い作品は、嫌われている節があります。
モノローグやセリフで表現するなら、映像じゃなくても良い、みたいな決まりごとがあるようにすら感じます。
モノローグで説明するなら、脚本の時点でダメなのかもしれません。
モノローグがあるからこそ、成立することもある。
3月のライオンには、そのモノローグがもっとあっても良かったと思いました。
無言が多く続く作品でもあるので、そこは自由に想像して、ということなのかもしれません。ただ、感じ取れることには限界があります。
むしろ、わかるよね? とすら言っているようでもありました。
なにも説明的になって欲しいわけではなく、感じ取るためのフックが少ないなと。
それがセリフなのか、モノローグなのか、はたまたシーンとして描ききれていないのか。
特に最近の日本の実写映画は、そんな風に感じることがあります。