本は、最後まで読まなくてもいい。新しい判断をする機会をくれたことの気づき。
泉鏡花の「鏡花短篇集」という小説を2017年12月に買いました。
レビューを見て面白そうだと思ったので購入に至りました。
明治から大正時代に書かれた空想世界は、どんなものだろうかと期待をしていました。
理解しにくい文語体
いざ、本を開いてみると、文体が文語体でした。
文語体(ぶんごたい)は、文語を用いて書かれた日本語の文章形式のこと。第二次世界大戦前までは特に公文書などで標準的に使われていた。現代の日本語における文語は、明治時代からの言文一致運動と、第二次世界大戦後の国語改革の影響により、話し言葉に比較的に近いものになっている。
wikipediaより
Amazonで買ったので、中身は見ておらず、作品紹介やレビューがとても良かったので、その印象で買いました。
文語体は、慣れていないこともあり、分かりにくかったのです。読むには読めるのですが、文章自体を理解できないところも多く、なかなか読み進められませんでした。
今年のやりたいことに、古典小説を読む、ということも掲げていたので、良い機会だと思って読んでいたものの、短篇2作を読んだところで、息切れしてしまいました。
作品自体は、想像できるところはとても面白そうだなという印象はあるのですが、全く全体像がつかめませんでした。
本は、最初から最後まで読まなければいけない意識
これは、私の根強い意識です。
今回、改めてそれを感じました。
- 最後まで読まなければ、もったいない。
- 読めば頭が良くなる。
といった思いが、私の中に根付いているのが確認できました。
その本の中で自分に必要だったのは、たった一行かもしれない
私が読みたいと思ったから買った本ではありますが、絶対にその全部が必要でなくてもいいのだなと思いました。
最後まで苦しんで、時間をかけて読むより、早く別の本を数冊同じ期間で読める方が、よっぽどいいと、気づきました。
苦しんで最後まで読んだ結果にも、得ることもあるかもしれません。
しかし、別の数冊を楽しく読んで、その数冊以上に、はっとさせられる何かが得られるのかどうかわかりません。
本当に自分に必要だったのは、読んだところまでにあったその一行だったのかもしれません。
その一行を読むために買ったのかもしれません。
今回の本で言えば、短篇2作を読めれば十分得ることがあったのだと思います。
文語体というものを実際に読む経験ができ、こんな書き方もあるのかと文章を知ることができました。
まとめ
作者からしたら、最後まで読んでもらいたい気持ちも十分にわかります。
手に取った本を最後まで、読めない、読まない理由に気づくことができれば、それを十分だと思えるようになりました。
自分で新しい判断するための経験を、この本が与えてくれたのだと思いました。