日記帳を捨てた
2017年から書いていた日記帳を捨てた。
わたしの日記は、日記というよりも日々の行動記録。
日次レビューとして、日々の行動を記録し、どんな感情が芽生えたとか、ありがとう日記をつけていた。
4年間分の日記帳は、自己認識をする過程のものだと、捨てて数日後に認識できた。
日記帳を捨てるにいたった経緯や、その後すっきりした気持ちの変化をのこしておく。
日記帳を捨てるきっかけ
本を読んでいて、その中に日記帳を捨てる行動が書かれていた。
それを読んでピンと来た。
俺も捨てよう
なぜか、そう思えた。
日記帳を捨てればどうなるとか、捨てたあと見返したくなって後悔するかもとか、あとさき考えることはなかった。
その瞬間に、日記帳を捨てることがいい、と思えたのだ。
しかも、その日は、たまたま燃えるゴミの日ということもあって、すぐにゴミ袋につめて4年分の日記帳とサヨナラした。
2020年の半ばくらいから、日記帳には書いておらず、デジタルで記録するようにもなっている。
紙に書くかデジタルで保存するかで、日記をつける感覚が変わったのかもしれない。
捨ててから1週間、とてもすっきりした気持ち
捨てた日記を読み返したいとは思っていない。
それは4年前の日記であっても、変わらない。
いま思えば、今まで年が変わって過去の日記を読み返したことはなかった。
年末に1年間のふりかえりとして、パラパラっと全体を眺め返すことはあっても、さらに前の年の日記帳を見ることはなかった。
変化するための日記であって、読み返しておくためのモノではなかった
思い出をのこしておく日記というより、日々の行動記録だった。
自分を把握するために、文字にのこしておいたのだ。
そのとき、どんな行動をしていたのか俯瞰するために。
そうしていたのは、精神的に沈んで、押し殺していた自分を解放するためだった。
だから、その日記帳は自分を成長させるツールであって、思い出をのこしておく日記ではなかった。
そこに書かれていることは、少し重い自分のこと。
日記帳を捨てたことで、それを手放せたと思えるようになった。
精神的に沈んでいた頃の自分、そこから自分を見つめ直していく過程の自分は、今はいない。
もちろんその自分があって、いまの自分がいる。
書いていた細かなことはたぶん、もう不要で、でもその過程は自分の中に溶けこんでいるから、その時のことは忘れることはない。
たぶん、このブログがあるから、そこまで日記は必要ないのかもしれない。
ブログにも、そのときのわたしが記録されているのだ。これを書いたこの記事にも。