自然体とは、表も裏も見える自分でいること!

山の上で雲の上の朝日を見ている

人は、表裏一体で一人、だと思います。

人には、表も裏もあるようで、実は、ないのかもしれません。

誰かに知られたくないことや隠している部分を裏とすれば、表と裏があります。

最近、私は、その裏を持つことが苦しく感じています。内観してみて、少しずつそれを雨ざらしにしていきたいと思うようになりました。

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意図的に隠そうとしている内の気持ちが苦しい

悟られたくない弱い自分や、変だと思われたくない部分があります。

じっくり内観してみると、それは、まだ表に出せない中心部の本心なのではないか、と気づきました。

私の奥底に建てられたやしろ。その中に祀られている私の御神体。それが本心のような気がしています。

私自身、それを見たことはありませんが、その存在は知っています。

どうも、それが光り輝いているのか、重く沈み始めているのかはわかりませんが、社の中にあることが苦しく感じるのです。

隠しいたい存在も自分の一部だと認める

隠したいと怖れは、自分の想像や妄想であって、他人からしてみたら、本当は大したことないことだったりもしま

もちろん、自分を出す場所によっては、よくない雰囲気を生むかもしれません。

わざわざ大っぴらにする必要はないのかもしれません。公共の場で、裸になるというのではないのです。

そう思ったら、別に隠したい存在や御神体は、もう意識する必要はないのだろうと思います。

どう見られたいか、と意識するから表と裏ができるのだろうと思います。

こういう面もあれば、あーいう面もあるのです。一面だけにこだわらなければいいのだと。

表側はつくろっていないか?

逆に見えている表側は、見せたいと思ってつくろってしまっていないだろうかと我に返ります。

どこかで、こう見て欲しいと思って表側を作ってしまっては、本来の自分を隠すことと同じような気がしてなりません。

裏を隠して、表を作り込んでは、一体、自分の何が見られるのでしょうか。

表裏一体のまま、裏も表も見える自分でいられれば、隠すとかつくろうこともなくなっていいように思えます。

素の自分を雨ざらしへ

突然、裏面の顔を見せれば、驚かれるし、自分もそれは本意ではありません。

それを出すことにまだ自分も慣れていないので、少しずつ一体化させていけばいいと思います。

まずは、森の中で、ひっそりと御神体を祀る社を少しずつ取り壊していく。

屋根を外し、周囲の壁をなくしていきます。

少しずつ外の空気に触れさせて、慣れてきたら、森を出て町を通って、海に出ます。

それまでに、風が吹いて、雨にも降られるでしょう。その時、それらが冷たく痛く感じることもあるかもしれません。

でも、それが本当の自分であるのだと思えます。

そして、海に出たら、波まかせ風まかせでもいい。

波を読み、風を読み、自分の行きたい方向へ行くのが自然だと思えます。

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