自分の思いが変化することが面白い。自分と向き合い始めて感じたこと。
自分については、「無関心」だった。
「無関心」というと語弊があるかもしれないが、自分とはこういうものだと決めつけていた。
たとえば、好きなもの、嫌いなものは基準があり棲み分けされていて、それ以外は興味ないという部類になっていた。
このフィルターに落とし込むことで、日々の物事の処理、人間関係を楽にしていた。
自分はこういうものだという固定観念を振りまいて、周囲に理解させるような行動をしていたと思う。
それこそ、自分が嫌なことをしないでね、と言っているようなこともあった。
自分には目を向けず、周囲の視線ばかりを気にしていた
自分の視線は、自分の目高より30cmくらいうえにあって、辺りを達観するように見ていた節がある。
嫌われないように気を張り、自分の弱みを知られないように。
仕事でも失敗せず、1秒でも早く期待に答える行動。
これらの反対には、できなかったら、成果分のお金がもらえない恐怖があった。
この10年間くらいで、この感覚が身についていったと思う。
変化のきっかけ
2年前、それが崩壊する。「2015年の起点」記事のことである。
真相は、自分を偽りすぎて、まとっていた守りの壁が壊れた。
それからゆっくりと2年の時間がながれ、今、やっと自分と向き合うことができるようになった。
そんな自分を意識できるようになったのは、今年の2月くらいからだ。
このブログを本格的に始めたことと、朝活をスタートさせたことだと思う。
どちらも自然とやろうと決めてやり始めた。
今も続いているので、もうやめたいとか、辛いとか感じることはない。
とても楽な気持ちでやれている。
ブログもやりたい意識はずっとあったが、ブログを立ち上げては潰しての繰り返しだった。でも、なぜか自然とやり始めることができた。
朝活も、小説を書こうと思って、思考トレーニングを朝やってみようと思い立って、やり始めた。
自分の本当の「好き」
今、考えると、自分の好きが中心にあって、やり始めていることだった。
2015年の起点が起きる前までは、その自分の好きを偽り隠すために、フィルターを作成して周囲に「本当の好き」を悟られないように過ごしてきた。
自分としては、好きを知られることが恥ずかしかったんだと思う。
でも、今は、その好きを口にして、自分の中で磨いてあげたいと思えるようになった。
なぜ、恥ずかしいと思っていたことを、磨こうとまでに思えるようになったかは、今はまだ言葉ではっきりさせることができない。
自分の変化が面白い
ただ、その変化を面白いと感じることができたし、そういう変化が起きたことにも気づくことができている。
ブログの内容でいえば、何かを媒介にした説明や紹介しかすることができていなかったが、次第に自分の過去に起こったことや思ったことを書くようになっていた。
この記事自体もそう。
朝活の週次報告記事でも、朝活を繰り返していくことで、小説のプロットが出来上がったり、本を一冊読み終えたり、小さな積み重ねが何らかの形になっていることに気づいた。
少しずつ、感じることや思っていることが変わっていて、面白いと感じ始めた。
どうしてそう思うようになったのか、少しずつ考えられるようになってきた。
変わることは、ブレていること、だと思っていた。
以前の自分では、こういった変化は恐ろしいことだと思っていた。
一度言ったことは、取り消さず、貫き通すことが絶対正しいと思っていた。
だから、あとあと意見を変えたり、なにかしらに変更があるといことは、心にブレがあり、それを強く嫌っていた。
でも、それが絶対正しいとは思わなくなった。変化は必ずあることなんだと、思うようになった。
まさに自分の身でそれを体感したからこそ、言える。
常に変化し続けている
生きる環境が変わったり、時代の流れが変化し、新しい意見に共感したり、常に時は流動的で、一定ではない。
一生同じでいられるはずがない。
変化はあっていいんだ。
自分が変化することはもちろん、他者も変化する。だから、変化したことにいちいち文句を言ったり、拒絶する必要もない。
逆に、変化したことで、文句を言われ、拒絶されることもあるだろう。
でも、自分が変化を許した以上、そうなることも許す。
そうなった時、どう対応するかを考えればいい。
まとめ
今年も半年近く過ぎって行った。半年前まで、ここまで書いたようなことが起こるとは予想できていない。
変わろうという気持ちはあったけど、こんな風に変わるとは思ってもいなかった。
なぜだか、変化する自分が面白く感じている。
もしかしたら、この考えも少ししたら変わるかもしれない。
以前の自分も「変」だと思っていたが、今の自分も「変」だ。
その「変」が面白い。
これからまた、どう変化していくのか、じっくり自分を見つめていきたい。