シン・エヴァンゲリオンを見て、「簡単に」生きようとしていた。「悩み」ながら生きよう。

波打ち際

新劇場版「シン・エヴァンゲリオン」を見て、これまでの人生観をふりかえる。

目次

エヴァンゲリオンとの出会い

初めてエヴァンゲリオンを見たのは、中学3年の夏。高校の受験勉強真っ只中。

テレビアニメとしてすでに放送を終えていたものを、深夜に一挙放送することを知った。今は懐かしきビデオテープに録画した。それを受験勉強の合間に少しずつ見て、はまった。最初は、ハマった程度だったが、気づいたら沼どころから宗教のようにのめり込んでいた。

受験勉強中は、この夏を制することができなければ、未来はないと思えるような雰囲気を過ごしていたのは今でも鮮明に覚えている。それが自分の日常だと分かっていたし、他に目線を合わせてはいけない雰囲気もあった。

しかし、私の目線を奪ったのがアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」だった。

ほとんど主人公たちと同年代で、もしかしたら自分もそんな世界の住人になれるのではないかと思っていた。世界を背負うとか、ロボットに乗りたいとかではない。碇シンジになりたかったのかもしれない。単に、今の日常を壊してくれるならなんでも良かったのだろう。たまたま、まだ何にも染まっていない純粋な心に、墨を一滴落としたのがエヴァンゲリオンだった。

その夏に、テレビシリーズで補完できなかった内容を劇場版が公開された。休みを作って見に行った。そこで、エヴァンゲリオンは自分の中では終わることになるはずだった。

人生を変えるエヴァンゲリオン

エヴァンゲリオンを見て、私の人生は変わった。創作という世界に入っていった。

テレビシリーズの続きを書いたり、エヴァというロボットがある世界を自分なりに書いたりしていた。自分が碇シンジとなってその世界を生きる。私が物語を書き始めた原点は、そこにある。エヴァンゲリオンを見ていなかったら、こうして文章も書いていないような気もする。だから、エヴァンゲリオンは単にオタクとして見るアニメとは、私の中での立ち位置は違う。

人生に影響を与えられたと言っても過言ではない作品。その後もちょこちょこ物語を書くことは続けていた。時にそれが映像作品になったり、物語とは違う物作りになることはあった。でも、それは真っ当に生きるという人生の少しずれた場所でのことで、ずっとどう「真っ当に生きるか」を考えていたように今は思う。

でも、心の中では、エヴァンゲリオンのような世界で生きたいとずっと思っていた。

エヴァンゲリオンのような世界とはどんな世界か。あのアニメの世界にそのまま入り込んでそこの住人になるのも、それはそれで面白い。ただ、それなり理性が働いてしまって、そんなことはできないと常識ぶってしまう自分もいる。

碇シンジのように生きる

碇シンジ。碇ゲンドウと碇ユイの息子。エヴァンゲリオン初号機パイロット。その「碇シンジ」になりたいわけではなかった。シン・エヴァンゲリオンを見終えて、「碇シンジ」のように生きたかったのだと気づいた。

「碇シンジのように生きる」とは、何かに翻弄されて悩みながら生きること。碇シンジは、エヴァをはじめ、実父碇ゲンドウや周囲の大人やその事情に挟まれ、同年代のエヴァンゲリオンパイロット、日常の学校の友達、日常と非日常が混在した世界で生きる。

私も実世界で、そう生きたかったんだと思う。でも、何かに翻弄されて悩みながら生きることは、誰もがそうしながら生きているはずだった。しかし、現実はなぜかそれが見えない。それを表に出そうとしていないか、それが普通になってしまっているのだろう。年を重ねるごとに、次第に悩むことについて悩まなくなっていた。悩み過ぎれば、病気のように思われ、それを客観視できるようにもなってしまっていた。それが大人なのだろうけど。

こじらせるのをやめろ

たぶん、エヴァンゲリオンの新劇場版のメッセージは、これだと私は思っている。庵野監督のメッセージでもあろう。「碇シンジのように生きる」な、という意味もありそうだが、「もうエヴァにこだわらないでくれ」とも言っているように思える。「序」と「破」の時点ではこのメッセージ性は含まれていないように思う。しかし、「Q」になって「破」を延長線上で作っていたシナリオが変わったのはあきらかである。

新劇場版は、もともとテレビシリーズの再構築版として作られていた。おそらく「破」を公開するまでは、「Q」のシナリオは、再構築版としてシナリオ通りだったのだと思う。しかし、ふたを開けてみると、期待していた「Q」は別物になっていた。「Q」の公開が延びたりしたのも、シナリオの変更があるように思える。

「破」公開後の社会的に起きたことやネットの進化で、新劇場版「Q」に新たなメッセージが込められたように感じる。「Q」そして「シン」に出てきた設定を見ても、「もうこじらせるのをやめろ」「真っ当に生きろ」というメッセージを感じた。

「簡単に」生きようとしていた

一方、気づけば、私は「簡単に」生きようとする自分になっていた。これは、「シン・エヴァンゲリオン」を見ている最中に出てきた意識。「簡単」というと語弊がありそうだが、「わかりやすく」と言い換えても良さそうだ。

「序」「破」の公開を経て、「Q」が公開されるまでの間に、社会が変化し、私もそのうねりに飲み込まれた。悩むことをやめ、答えをどこかに求めるようになっていた。そして、自分が誰からもわかりやすく理解してもらえるように振る舞うようになっていた。

当然、周りも社会もわかりやすいことがスタンダードになっているように思える。昔から、「レールの上を歩く」という言葉がある。そこから逸脱することは、人生の答えはなく生きるのを難しくするような表現でもある。わかりやすく、簡単に生きようとする今も結局は、レールを簡単に敷けるようになったことだけのように思う。いくつものレールがさまざまな場所へ伸びて、そのレールに乗せようとする力が日々強くなっていくのを感じている。

「簡単に生きよう」とするのは、その「レール」のことばかり考えていると同じことだ。「こじらせるのをやめろ」というのも、「レール」のことばかり考えるなと言われているように感じる。元に返せば、「簡単に生きようとするな」という意味にも私は感じられたのだ。

真っ当に生きろ

「真っ当」とはどういうことか。「真っ当に生きる」とはどんな生き方か。わからない。その答えはない。自分で見つけるほかない。

常識と言われるように振る舞うことかもしれない。しかし、その常識は本当に常識なのだろうか。単に言っている人がそう思い込んでいることだけかもしれない。それを鵜呑みにして何も考えずに従うことではないだろう。

人によっては、今のレールから別のレールに移ることかもしれないし、レールを外れて道ではない道を進み生きることかもしれない。

もっと悩みながら生きていい

「シン・エヴァンゲリオン」を見て、新劇場版がまだない世界で何を考えていたのか、懐かしい自分を思い出した。郷愁するつもりはないが、何を考えて生きていたか、自分の芯を思い出させてくれた。

でも、私は、純粋にもっと悩みながら生きていいと思えた。加速度的に日々進化していくように生きるのもそれは魅力的ではある。しかし、碇シンジのように、自分自身で悩みながら、ゆっくりでもいいから、自分の答えを見い出すことに輝きがあると思えたのだ。

「いい大人が、」と言われるだろうけど、様々な場面での「生きる」という答えの出ない悩みを悩みながら、もうエヴァンゲリオンがない人生をもう少し生きたいと思う。

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