他人と比較することをやめたい。結果、「愛」が伝わるために必要だと気づく!

黄色いチューリップ、白い花や赤い花
花々も他花と比較し合うのだろうか?

他人と比較することをやめたい

とくにSNSなんかを見ていると、よくそう思ってしまう。

「やめたい」と思うくらいなら、まだいいかもしれない。

  • 自分はダメだ
  • あの人よりおとっている
  • なんでなにもできていないんだ

と、どんどん自分を卑下するループに入りこんでしまう。

今まで抜け出せず、出口への道すら見つけられずにいた。

何度「SNSを見ない」「やめよう」と思ったかはわからない。
(数えていない。ブロブには何回か記事にした)

このブログも、過去のブログと同じモノになってしまうのだろうか?

いや、今回は、「他人と比較してしまう自分」を解き放つことができたことを報告するブログになる。

目次

「他人と比較する自分」を認めることにした!

ただ、完全に比較しないようになったワケではない。「比較」は、どうしたってしてまう。

「比較」は必要なことで、「比較」することを受け入れることにした。

「比較」しないで、人生を生きる方法がどこかにあるかもしれない。でも、今の自分にはその方法は必要なくなった。

「他人と比較する自分」を消すのではなく、「他人と比較する自分」を認めることにした。正直、1、2の3で、簡単に認められるようなものでもなかった。

とにかく「自分」と向き合うしかなかった。

私の場合は、ノートで自分の内を書いて、対話していって、落としどころが見つかった。

それで、「他人と比較する自分」を認めたことによって、「他人」と「自分」を見る目や感じ方が変わった

心も軽くなったし、SNSも気軽に見れるようになった。

ようやく「他人」は「他人」、「自分は自分」と線引きできるようになった。以前から言葉の意味ではわかっていたけど。

でも、すんなり受け入れるには時間もかかるし、なにより自分でいかに納得できるかが問題だった。

「他人と比較する」ことに、「他人」が協力してくれることはない。すべては「自分」との問題でもある。

どこまでいっても、「他人と比較する自分」と向き合うしかない

とはいえ、「自分」と向き合ったからといって、すぐに納得した結果にはならない。過去、ならなかった。

他人との「差」があるから「愛」がわかる!

なぜ「比較」してしまうのか?

「比較」することの意味に考えてみた。結果、「」なんだと思った。

人はよく「」がどうたら言う。なにが「」でなんとかなるなら、なんとかしてほしい私だった。

今回、自分と向き合ったら、その「」が出てきてしまった

「そういうことか」と、嬉しいやらショックのような感じになった。

これが現実なんだと。

自分と同じ人はいない

「他人との比較」つまるところ「他人との差」。

この現世では、「差」を見ることで比べていると言っても過言ではない。

自分と同じ人はいない。双子だったとしても、同じではない。

同じ物は、ある。あるけど、それを持ったとき、全員がまったく同じ感想をいだくだろうか?

必ず違ったことを思うだろう。

なぜ、差異が生まれるのだろうか?

すべて同じだったら?

逆に、すべて同じだったら?

全世界の顔が自分と同じだったら?
自分でなくても、すべて同じだったら?
同じ意識だったら?

「差」もなければ「比較」もない。できない。

なにが楽くて、悲しくて、つらくて、そんなささいなことがらも感じることはない。

他人と自分に「差」があるから、自分が楽くて、自分が悲しくて、自分がつらい、と感じることができる。

他人と自分に「差」があるから、誰かを認識できる

みんな同じ顔で同じ体形で同じ服を着ていたら、「比較」もなにも区別ができない。

もし、こういった「差」がなかったら、」も感じられないんじゃないかと強く思った。

「差」が「愛」を伝えてくれる

自分から誰かに「」を渡すことも、誰かから自分への「」も受けとれない。

そんな世界は、悲しすぎる。冷たすぎる。

人生、悪いことだってある。「差」がなければ「悪い」とも感じられない。

「差」があること、「比較」することがあるから、感じられる。

これこそが「なんだと、私には思えました。

極端な考え方かもしれないけど、みんなそれぞれの「」をふりまいているんだと思う。

形も色も違う「愛」。でも、「愛」には変わりない。

そして、「自分」も、「私」も「愛」をふりまき、誰かから自然と「愛」を受けとっていたのだ。

愛に気づけば、愛おしくなる!

この「愛」に気づいたとき、「他人と比較する」ことは悪いことじゃないんだと、納得できた。

心は軽くなり、「他人は他人」「自分は自分」であるとわかった。

ミズシー

自分は自分でいい
良いも悪いもない
ただ自分が今、ここにいるだけ
」とともに

「比軽」「差」があるから違いが見えてしまうこともある。

でも、それ以上に「愛」を感じるために、「比較」「差」があるんだ、と見えたできごとでした。

黄色いチューリップ、白い花や赤い花

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