自然の中で、意識を手放し、自然体に近くことができた御岳山御嶽神社奥の院への山道にて!
2019年3月21日、奥多摩にある御岳山御嶽神社奥の院へ行ってきました。
友人に誘われて、初めての御岳山ハイキングへ。
もともとこのハイキングは、魂の声を聴くという主催者の意図もあり、私自身も1つ目的を持って参加しました。
それは、自分が自然体でいられるか、です。
周囲の視線や反応を気にせず、いかに自分でいられるか、という今自分自身の生き方テーマの一つ。
今回のハイキングでは、参加者6人のうち、誘ってくれた友人を除いて4人は、初めて会う方々でした。
自分の知らない人との間では、少なからずの緊張や自分の見せ方などが意識してしまう自分。
あえて、そこを手放してみたいと思っていました。
自然の山の中では、自分一人と近くなれる
山の中の舗装されていない土がむき出しの道を一列になって歩いていても、誰か一緒にいるような気がしません。
場がそうさせるのか、私の感じ方がおかしいかはわかりません。
でも、登り道、もしくは降っている時なんかは、自分の力加減でしか動けないことを実感するので、なおさらそう感じているのかもしれません。
息が上がったり、疲れた足で体を支えると、いやでも自分を感じます。
それは逆に考えれば、自分と近くなれているとも思えました。
自然の中では、自然と出てしまう本当の自分
山の中では、どう自分を作ろうとしても、すぐにそれは破綻してまうように感じられます。
どんなに自分をよく見せようとも、山の中では自分を制御できません。
圧倒的な自然の中で、自分の意識なんてものは、ほんの小さなもので、自然を巻き込むほどの力はないと知ります。
むしろ、自然に巻き込まれて、本当の自分というのもが無理矢理引っ張りだされてしまう感覚すらあります。
たぶん、嘘はつけない場所です。
疲れているのに疲れていないと言って、歩けば、すぐに後悔します。
限界に挑戦できる場所でもありますが、それはやはり自分がどんな者なのかを気づかせてくれます。
自然体の自己主張は、わがままではない
下山途中、スタート地点まではもう一息というところ。
長めの休憩をするかしないか、という流れになりました。参加者の多くは、どちらでもよいという意見で、休むか進むか決まらない状況でした。
私は、このまま進んで、スタート地点に戻ってからゆっくり休みたいと思ったので、ふとそれを言葉にしました。
この一言で、休憩をせず進むことになりました。
どうするかという何気ない場面でした。それでも、普段ならわがままを言ったかなと思ってしまう私なのですが、前に進むという意見がちゃんとみんなの心に届いた感じがしました。
全員が、心から納得したよ、という信号を受け取りました。
心からこうしたいという気持ちが、何のフィルターを通すことなく人の心へ染み込んでいくそんな体験をしました。
自然体という感覚にまた一歩近づいた
自己主張したこの時、外を意識した自分がいませんでした。
ただあるのは、内から出る何の脈絡もない思いだけでした。それを言ったらどうなるとか、計算しての発言ではありませんでした。
自然と口にする意識とタイミングがあったようにも感じられた瞬間でした。
自然体とは、その場と調和し、内から自然と自分を成す状態ではないかと思えました。
この御岳山のハイキングに参加できたこと、この時に集まったメンバー、そのメンバーだからこそ生まれた状況に感謝します。