腰を痛めるその意味は……
2022年4月、今年1発目のぎっくり腰。1年3ヶ月ぶり。
しばらく来てなかったのに、突然、あなたは来るんですね。
再発防止のトレーニングは続けているけど、ちょっとしたズレ?で、狂うみたいだな。
ただ、何度もやってるから、ぎっくり腰になる前兆と、なる直前がわかりはじめている。
今回、その経験値からフルでぎっくり腰になることは回避できた。とは言っても、75%くらいの痛みはある。いつもよりは回復が早い感じがする
なぜ、俺は何度も腰を痛めるのか?根源からかけ離れた答え!
こう何度も腰を痛めて、やっちまった瞬間は、いつも後悔する。後悔と言っても、なにを後悔しているかは自分でもよくわからない。だって、すぐに痛みが襲ってきてその場にしゃがみ、顔を歪ませなければならない。
この痛みを味わうに連れて、ぎっくり腰がイヤになるといえばなる。でも、そこまで絶対イヤかと言われると、そんなでもない。
なかば諦めてもいる。また来たかとも思うし、またいずれなるのだろうとも思う。もちろん、ならないに越したことはない。でも、なっちゃうんだから、もう受け入れている。
なぜ、こうも何度も腰を痛めるのか。わざわざ体から痛みを発してくれる意味はなんだろうか?
あ、正当な理屈はもう必要としていない。もっと別次元のところに引っかかっているようなものだ。決してすべてをあきらめているわけでもないことを書いている。
- とにかく休め
- 体をいたわれ
- もう動く必要はない
- もうなにもしなくていい
- 必要なものは勝手に集まってくる
- 痛みが生存の証
- この痛みを誰かに伝えろ
パッと思いついたものだが、的を得ている気がする。
普段はこの逆をしていて、限界を越えたのだろう。耐えきれなくなった体が痛みという信号と症状を出して、体の動きを止めた。
ということは、普段からそんなに動く必要はないということだ。まぁ、動かないと金銭的に巡らないものになるという不安がある。それすらもせずにいいということなのか。
昨今は、あちこちに動かずとも金銭を巡らせられるとは思う。俺のところにはあまり巡ってこない。誰か巡らせてほしい。つまり、自ら止まることをすれば、勝手集まってくるということだ。
痛みを感じているということは、体が生きている。
この痛みが伝えることは、経験してみないと伝えづらい。体験者からしたら、無理に経験する必要はないと言いたい。だって、痛い。でも、体験したからこそ、自分をふりかえるきっかけにもなる。
でもでも、わざわざ痛みを感じてからふりかえる必要もない。いま、余裕があるならその余裕を使えばいい。ムダにはならない。後悔してからだと、余力がなかったりして立ち直るまで時間もかかる。
そう。
どんな状況だったとしても、今を大事にしていこう。